処女はお姉さまに恋してる SS 第3章
その先に向かって……

※ このSSは、キャラメルBOX制作処女はお姉さまに恋してるを元にしています。引用文・作品名・名称などの著作権はすべてキャラメルBOXが所持しています。

※ あ、あとゲームやってないとたぶん、というか絶対意味不明です。ぜひ買ってプレイしましょう(18歳以上になってからね)。





「こ、ここが瑞穂さまのお家なのですかっ!?」
 卒業式を終えて、瑞穂に連れられやって来た奏は、その門構えに驚きの声を上げた。
 大きい。
 ひたすらに大きい。
 奏は、皇居の桔梗門や大手門かの様に見えるほどのインパクトがあった。
 思わず、「ごめんなさい」を十回ほど繰り返して逃げ出したくなってしまいそうだった。
 更に云うと、壁が長い。一直線に伸びた壁は数百メートルは続いていそうだった。
「ええ、そうだけど……変ですか?」
 不安げな瑞穂の声に、ブルブルと顔を振るわせる奏。
「たっ、ただ、お正月の時にお邪魔させてもらったお家を想像していましたからっ」
 奏のその言葉に、「ああ」と瑞穂は頷いた。確かに奏は、一度鏑木家に顔を出していた。だが、その時は──。
「あれは離れですよ」
 流石に屋敷に直接案内するわけにも行かず(流石に鏑木だとバレる)、上手い事、離れを家に見せていたのだが。
「は、離れっ!?」
 ここは別に驚く程のことでは無いのだが、どうやらかなり混乱しているらしい。
「では、入りますよ」
「は、入るのですかっ!?」
「……奏、何しにここまで来たと思っているんですか」
「な、なんなのですかっ!?」
 既に奏は何を云われても、飛び上がって驚くようになってしまった。よく奏が陥るパニックモードだった。
 仕方ないなあ、と笑みを浮かべた瑞穂だが、それも奏らしいなと嬉しく思っていた。
「ほら、皆に奏のことを紹介するんですから。胸を張って入りましょうね」
 未だに固まったままの背中を押して、瑞穂と奏は門を潜った。

★      ☆      ★


「はっ……ここはっ!?」
 ようやく混乱から復帰した奏だったが、外に居たはずなのに、何故か既に家の中に入っていた。
「い、いつの間にっ……」
 怖々と辺りを見渡してみると、想像していたような、金箔の張り巡らせた凄まじい部屋ではなく、ごく一般的な和室だった。
 特に高価そうな調度品は見当たらず、「もし何か壊してしまったらどうしよう」という焦りはとりあえず落ち着いた。
 これが成金趣味の厳島家なら、奏は完全に身動きがとれなくなっていただろう。
「とりあえず、これでも飲んで落ち着いて……楓さんが淹れてくれた物だけど」
「あ、ありがとうございますのです」
 瑞穂から差し出されたのはティーカップだった。和室に紅茶はちょっとあわないのかもしれないが、きっと落ち着けるように頼んだのだろうと奏は思っていた。
「ファーストフラッシュの香りですね……美味しいのです」
「落ち着きましたか?」
「あ、はい。大丈夫なのです」
 若々しいファーストフラッシュの紅茶独特の香りに、奏が正常に戻ったとき、すっと障子が横に動いた。
「……ん、瑞穂。帰っていたのか」
「父様。はい、ただいま戻りました」
 どこか貫禄を感じさせる声。瑞穂から「父様」の声を聞くまでも無く、それが瑞穂の父親、鏑木慶行なのだと奏は理解した。
「それで、お前の横で固まっているのは?」
 えっと瑞穂が奏の方を向くと、さっきまで正常に戻っていたはずの奏が再びフリーズしていた。
「あ、あの、わ、私はす、す……」
 なんとか自己紹介をしようとするのだが、一瞬にして緊張が臨界点を突破してしまった奏には「す」より先の言葉が出てこないようだった。
 それを見てくすりと笑った瑞穂が、代わりに紹介をした。
「こちら、周防院奏さんです。私と結婚を前提に付き合っています」
「ふむ……そうか」
 慶行は、表情一つ変えず頷くと一歩、奏の方へ踏み出した。
「よ、よろしくお願いしますのですっ!」
 ぺこりと頭を下げた奏だったが、慶行の反応は無かった。
 ただ、じっと……何かを睨むように奏のことを見ていた。
「あ──」
 奏は急に不安に襲われた。
 確かに、瑞穂は家柄など気にしないと云ってくれた。だが、その家族もそうだとは限らないではないか。
 瑞穂の父は、自分たちの交際を認めてくれないのではないか。いや、下手をすると孤児である自分など、人とすら認めてくれないのではないか……。
 膝がガクガクと震えだすのを、奏は止めることが出来なかった。
 何も云うでなく、じっと奏を見ていた慶行だが、やがて視線を外すと今度は瑞穂の方を向いた。
「──瑞穂」
「はい」
 ああ、やっぱり交際は認めないと云われてしまうのだ。
 奏は許されるのなら、耳を塞いでしまいたいと思った。次の言葉を聞くのが怖い。
 ここから逃げ出してしまいたい──。
「可愛い娘じゃないか」
 ……へ?
 今までの重みが急に消えた普通の声で、慶行が云った。
「それは、僕が見つけたのですから」
「だが──」
 こ、今度こそ来るっ!
 奏は再び恐怖に襲われ、体を縮こませた。
「靴は脱ぐようにな……」
「……」
 一瞬、顔を見合わせた奏と瑞穂だったが、徐々にその視線が下がっていき、奏の足元に目をやると……見事に靴を履いたままだった。
「はややっ、も、申し訳ないの──きゃあっ!」
 大慌てで靴を脱ごうとして……そのままひっくり返る奏。もう、滅茶苦茶だった。
「まあ、二人ともそんなに緊張するものではない。私は仕事があるのでこれで失礼させてもらうが、奏さんはゆっくりしていきなさい」
「は、はい! なのですっ!」
 その奏の言葉に頷いた、慶行は部屋から出て行こう――として。一度立ち止まると、くるっと振り向いて、瑞穂に声をかけた。
「それで……式はいつ挙げる予定だ?」
「父様、それは気が早すぎます……」

★      ☆      ★


 これで失礼させてもらう、と云った慶行だったが、その後、何故か幸穂との思い出話になってしまい。結局、一時間後に迎えの人が来るまで、奏たちに延々と話をしていた。
「は、はは、あはははは……」
 どうやら奏はどこか壊れてしまったようで、どこか無機的な笑いが漏れてくるのみだった。
「奏、もう戻ってきていいですよ」
「あ、はい……!」
 瑞穂に体を揺すられ、やっと我に返った奏は、ふうっと大きな息を吐いた。そして、落ち着いてくると思い返すのは、先ほどの壮大なミス。
「奏、とんでもない失敗をしてしまったのですよ」
「あー、それは僕も同じだから、気にしないで」
 どうやら瑞穂も奏に負けないくらいに緊張していたらしい。ただ、瑞穂の場合緊張があまり表に出ないので分かりにくくはある。
「それにしても、幸穂さまは、お花とお話が出来たのですね。凄い方なのです」
「嘘ですからね、あの話は……」
 予想通りの、父の暴走に瑞穂は頭を抱えていた。

★      ☆      ★


「なんとか、無事に帰ってこれたのですよ……」
 日曜の夜。奏はフラフラになりながら寮へと戻ってきた。
 あの後、鏑木家に一泊することになった奏だったが、人に会うたびに緊張の連続で、なにをやったのか殆どわからないままだった。
 奏が崩壊しなかったのは、影で支えていた楓のお陰だったのだが、それに感謝する余裕は奏には無かった。
 一時は、反対されることを覚悟していた奏は、いまだにそのギャップが埋まっていない。
 ともあれ、最悪の事態は避ける事は出来たので、とりあえずはほっとしていた。
「あ、奏ちゃん。お帰り」
 玄関に入ると、食堂にいた由佳里が奏に声を掛けた。
「た、ただいまなのです〜」
「どうだったの……って訊いてもいいのかな?」
 奏は、由佳里に瑞穂の家に行くと云う旨は伝えていた。更に云うと、卒業式のあとに、瑞穂が男である事も、由佳里に伝えてしまっていた。
 最初はまったく信じようとしなかった由佳里だったが、瑞穂に『証拠』を見せられ固まったときの様子は、奏が今までに経験した面白いことベスト10に入っている。
 そんな訳で概ねの状況を知っていた由佳里だったが、流石にへろへろの奏を見ていると不安に襲われた。
「だ、大丈夫なのです。瑞穂さまのお父様にも、他の方々にも歓迎されたのです」
「そ、そう……なら良かったけど」
 歓迎されたという割にはボロボロになっている奏を見て、余り訊かない方がいいかもしれないと思った由佳里は、すぱっとこの話を切り上げた。
「じゃ、お茶でもしよっか」
「あ、それなら奏が入れるのですよ。お土産に、紅茶を頂いてきたのですよ」

★      ☆      ★


 二人で紅茶をのみ、やっと一息ついた頃。由佳里がとんでもないことを口にした。
「あ、私、生徒会役員に立候補したから」
「……はい?」
 あくまで日常会話の範囲内で云ってきた由佳里に奏はまともに反応できなかった。まるで、冷蔵庫にプリンが入っているから、と云ったかのような軽さだった。
「で、奏ちゃんに応援者を頼みたいんだけど、いいかな?」
「あー、応援者ですか。それはいいですね……」
 うなづいてお茶を一口。
 砂糖などを使っていない、茶葉からの甘さが口に広がり、ふっと奏の心が落ち着く。と、同時に由佳里の言葉をやっと理解できた。
「由佳里ちゃんが生徒会で、奏が応援者ですかっっ!?」
「他に頼める人、居なくて……お願いっ!」
 鏑木家で、ひたすら精神を消耗してきた奏にとっては、あまりに酷な第二ラウンドだった。
 だが、手を合わせて必死な表情で頼んでくる由佳里を見て、奏はそれを拒絶することは出来そうに無かった。
 反射的に立ち上がってしまったので、とりあえず椅子に腰掛けふうっと、一息吐く。それで何とか落ち着いた。
 どうやらこの二日で、奏はパニックに陥っても直ぐに復帰できるスキルを身に着けたらしい。
「わかりました。奏で良ければ、お手伝いするのですよ」
 奏が笑顔でそう答えると、由佳里はふにゃっと崩れ落ちた。
「よ、良かったぁ……奏ちゃんに断られたらどうしようかと……」
 その様子にくすりと笑った奏は、浮かんできた疑問を口にしてみた。
「でも、驚いたのですよ。由佳里ちゃんが生徒会の役員に立候補するなんて……理由とか訊いてもいいですか?」
 奏には、消極性の塊に見えた由佳里がそんな積極的に出て行ったのが不思議だった。
「あー、きっと奏ちゃんが考えてるみたいに立派な理由は無いよ?」
 最初にそう念を押してから、由佳里は事の次第を話し始めた。

★      ☆      ★


 切欠は些細なことだった。陸上部の来年度の予算請求をどうしようかという話が持ち上がった。
 今まで、そんなものにまるで関心を持っていなかったが、まりやに「来年は由佳里が部長」という呪いを掛けられたため。今の部長と共に、取り組むことになった。
 結果、理解できたのは陸上部が文科系の部活と比較して予算が少ないと感じたことだった。
 確か、前部長のまりやと前生徒会長の貴子は、仲が悪かったことを思い出し、若しかしたら、不正に生徒会からの予算を減らされていたのでは? と思い立った。
 それでも、去年までの由佳里ならそれで「仕方ないか」と思ってそれだけだった筈だ。だが、今の由佳里は違った。
 今の由佳里の目標は『良いまりや』だ。卒業式で瑞穂に冗談交じりに云われた言葉ではあるが、何故かその目標は自分にとってしっくりと来る物があった。
 御門まりやお姉さまを超える。彼女が出来なかったことをしてみせる。
 当初、その目標は陸上での記録で作ろうと思っていたが、こんな所にも超えられる場所があった。
 ──生徒会に入って、陸上部の予算を増やそう。
 ある意味、最悪の動機ではあったが。そう思い立ってしまった由佳里は、そのまま生徒会室へと飛び込み──。
「生徒会役員に立候補させてください!」
 と開口一番云いつつ、机に躓いて転んでしまうという失態をして見せた。
 そんな感じで体を張って現役員に印象付けることに図らずも成功してしまった由佳里だったが、次期生徒会長・門倉葉子は困惑していた。
 と云うのも、この由佳里が飛び込んできたのは3月の卒業式後。既に、次期生徒会メンバーは確定しており、あとは正式な指名推薦を待つのみという段階だったのだ。
 折角のところ悪いが、これは断るべきだろう。そう思った葉子だが門前払いも良くなかった様な気がしたので、とりあえず動機だけでも訊いてみようと思った。
「立候補したい役職と動機を訊かせて貰えますか?」
「会計監査で、陸──」
 素直に陸上部の予算を増やそうと──と云おうとして寸前で思いとどまる。流石にそれは拙いと由佳里の頭でも理解できた。なら、もう一つの理由がある。
「お姉さまと──瑞穂お姉さまとの約束があったのです」
「お、お姉さま!?」
 まったく予期していなかった由佳里の答えに、葉子は思わず裏返った声を上げてしまった。
 他の役員も、えっ、という目をしている。
 いまだ、彼女たちにとって、宮小路瑞穂と厳島貴子の存在は絶大だ。現にこの葉子でさえも、生徒手帳に写真部から購入した瑞穂の生写真を入れて持ち歩いているくらいだ。
 更に引き出しの一番奥にしまってあるテープには卒業式での瑞穂の答辞が録音されている。落ち込んだときにそれを一人で聴くのが、葉子のストレス解消法だったりする。
 そんな葉子たちが、瑞穂の名前を挙げられてそれを拒絶できるわけは無かった。
「り、立候補を受け付けます」
 あー、なんで私は瑞穂お姉さまの名前を聞いただけで、それに従ってしまうんだ。と思いつつ葉子は、机にしまっていた用紙を取り出した。
「これが受付用紙です。これに学年と名前と……役職の所に丸を書いて。あと、直ぐに演説会がありますから、原稿を用意しておいてください。それから応援者一名が必要ですので」
「あ、解りました。用意してきます。では、失礼します」
 少しだけ緊張した様子で、それを受け取った由佳里は、一礼してから生徒会室を出て行った。
 まるで嵐が通り過ぎたかのような状況に、あっけに取り残される現生徒会役員。
「お姉さまの名前は……ずるいよねえ……」
 可奈子の言葉に、君枝と葉子はこくこくと頷いて、既に完成させていた演説会のプリントをゴミ箱に放り込んでいた。

★      ☆      ★


「って、所なんだけど……」
「……」
 奏の予想とは、あまりにかけ離れたその出来事に、奏は目を点にしつつお茶を一口。
 ああ、やはり良い茶葉で入れた紅茶は、美味しい。
 そんな感じで現実逃避しかけた奏だったが、話の軽さとは裏腹に真剣な様子の由佳里を見て、なんとか現実に戻ってこれた。
「ゆ、由佳里ちゃんも頑張っているのですね……」
 とりあえずそう応えておいた。
 何箇所も感心しない所はあったような気がするけど、それを含めて「まりやお姉さま」っぽいなあ、と奏は思うようになっていた。
 それに、努力している過程が由佳里には似合っているな、と思えた。一時のおどおどしていた由佳里より、今の状態の方がずっと彼女には似合っている、と。
 奏も口にはしていないが、三人の目標とすべき人物が居る。
 鏑木瑞穂。
 厳島貴子。
 十条紫苑。
 どれも奏からみて果てしなく遠い存在だったが、奏にはこの三人以外に目標を指定することは出来なかった。
 瑞穂の様に優しく、貴子のように立派に、紫苑のように優雅に……。
「それで奏ちゃん〜」
 遠くを見ていた奏に、由佳里がなにやら声を掛けてきた。嫌な予感がしつつ、奏は応えた。
「なんですか?」
「演説文考えるの手伝ってぇ〜」
 涙目になりながら由佳里が出した原稿は『私は』の所で見事に筆が止まっていた。何度もその先を書こうと努力したあとは見えるのだが、結局ダメだったようだ。
「わかりました。お手伝いしますよ」
 奏の言葉に。由佳里は満面の笑みを浮かべた。
「よかったぁ……」
 まるで、砂漠の中でオアシスにでも辿り付いたような表情を、由佳里は浮かべた。
「それで、演説会はいつでしたっけ?」
「明日だよ。月曜の五時限目」
「……」
「……」
「あ、明日ですかっ!?」
「あ、あは、あはははは……」

 その後、徹夜状態で、立候補者・上岡由佳里と応援者・周防院奏の二人文の原稿を仕上げた二人は、演説会当日の昼に生徒会に原稿を提出。そして、ろくに演説の練習も出来ないまま、演説会に望むことになった。
 過去に類を見ないほどのショットガン応募であったが、奏が壇上で絵に描いたような転倒をした事を除けば演説会自体は大成功。
 信任投票ということもあり、由佳里は無事に生徒会の会計監査の役職に付くこととなった。

★      ☆      ★


「由佳里ちゃん。お昼一緒にどうですか?」
 昼休み。チャイムがなったと同時に、隣の席の由佳里に奏が声を掛けた。
 新学期となり、それぞれ無事に新二年生となった奏と由佳里は、偶然同じクラスに属することになった。
 もとより仲の良い二人であったが、先の演説会以降、一緒にいるところをよく見かけるようになっており、実は校内では怪しい噂が飛び交っている。
「んー、ごめん奏ちゃん。今日も生徒会!」
 最近よくやるようになった手を合わせて謝るポーズをとりながら、由佳里が答えた。
「だったら、仕方が無いのです。お仕事頑張ってください」
「うん! ありがとっ」
 元気良く答えた由佳里は、弁当箱を持って生徒会室の方へと向かっていった。
「由佳里ちゃん、ずっと忙しそうなのですよ……」
 由佳里が、奏とゆったりランチ出来ないのには理由がある。
 現生徒会メンバーで、役員と部活を掛け持っているのは由佳里のみ。更にその部活の方でも、ここの所ぐんぐん成績が伸びていて次の地区大会の成績がよければ、都大会への道が開けるところまで来ている。
 そんな訳で、出来るだけ放課後の時間を部活のほうに割り当てたかった由佳里は、昼に出来るだけの仕事をこなそうと通いつめている。
 生徒会へ入る動機となった部活動予算の方はと云えば、まったく怪しいところは無かった。部員数・大会などでの成績・そして必要な物品・提出書類などの不備。それらを考えたときの配分はぐうの音もでない程にしっかりしていた。
 まあだからといって「やめます」と云う訳にもいかず、由佳里は普通に生徒会役員として仕事をこなしている。
 会計監査として入った由佳里ではあるが、役職などあってないようなもので、手のあいている人がその時必要な仕事をするというのが通常業務になっている。
 誰が何をしなくてはいけない、というノルマのようなものは無く、あくまで自主判断ではある。が、他の役員が頑張っているのに、自分は何もしないで部活動ばかりというのは、由佳里とはいえプライドが許さないし、それでは『悪いまりや』になってしまう。
 結局、昼休みをフルに使って生徒会の仕事をこなしていくことになった。
 もっとも、常に誰か人がいないと困るのが生徒会室なので、由佳里のこの状況は他の役員にとっても好都合。お陰で、いままで交代でとっていた昼食がゆっくりととれるようになっていた。
 放課後も、生徒会室に顔を出して大きな仕事が無い事を確認してから、陸上部に向かい黙々と走り込み。それが終わったら、また生徒会室に顔を出して仕事を手伝う──と、なかなかハードなスケジュールをこなしていた。
 尤も、瑞穂と違って勉強をせずに夜は直ぐに寝てしまう為、疲れが溜まって抜けないということは無さそうだった。
 奏の方も、決して暇という訳ではない。演劇部では次の定期公演に向けて準備が着々と進んでいるし、更に部長に代わって新入生の指導を担当している。自分が前部長の小鳥遊圭に言われたことを思い出しつつ、指導をする日々が続いていた。
 自分に圭ほどの指導力が無いことを自覚していた奏は、それを補う為に、手取り足取りの熱心指導を行っていた。
 このお陰で、じわじわと新入生の間で奏人気が上がっているのだが、そんなことに興味の無かった奏は、いつも通りの指導を終えると憧れるような視線には全く気付かずに、寮に戻ってきた。
「ただいまなのです〜」
「あ、奏お姉さま。お帰りなさい」
 そう声を掛けてはいると、すぐに新入生二人が出迎えに来てくれた。
 今年誰も入らなかったら寂しいね、と奏と由佳里は話していたが、今年も例年通り二名が寮生として加わって、それぞれ奏の由佳里の、お世話係となった。
 ただ、奏と由佳里がむくれたのは……この新入生二人が、共に身長では160cmを超えている事だった。
 まあ、背の高さで云えば、瑞穂や紫苑の方が高かった為、威圧される訳ではないが、それでも奏とは20cmもの差が開いている。二人が並んでどっちが上級生か? と訊ねられたら、十人中九人は新入生の方を差すだろう、と奏は自覚していた。
 本当は十人とも新入生を差しそうだが、その一名は奏の微かなプライドである。
「……ちょっと電話を使いますよ」
 新入生に淹れて貰った紅茶に口をつけ、一息を付いてから奏が云った。
「はい、わかりました。ラブコールですよねえ」
 ……すでに奏が外部に彼氏もちだということは、ここの寮生には知れ渡ってしまったいた。
「ら、ラブコールなんて洒落たものじゃないのですよっ」
 ぶんぶんと首を振って、だがそのまま電話機へと向かいすでに覚えてしまった、瑞穂の携帯へとダイヤルをした。
 一コールであっさりと瑞穂が出て来た。
『ああ、奏。今、部活が終わったところですか?』
 そして受話器からは、やさしい瑞穂の声が聞こえてきた。
 ちなみに新入生二人は、受話器から漏れる声を聞き逃すまいと必死に聞き耳を立てていた。
「はいなのです。今年の新入生さんは、飲み込みが早いので次の定期公演は立派になるのですよ」
『そっか。僕も見に行きますから、頑張ってくださいね』
「はいなのです」
 瑞穂に頑張って、と声を掛けられた。それだけで、奏は今日一日のマイナスに感じたことが吹き飛んでしまうようだった。
 と、受話器の向こう側から、瑞穂を呼んでいるような声が聞こえた。
『奏。これから、会社の方に顔を出さないといけないので、今日はこれで切りますね』
「あ……はいなのです」
 由佳里も忙しいが瑞穂の方も忙しそうだった。
 夕方までは普通に大学生をして、それからは鏑木の会社に顔を出し仕事を継ぐための勉強として、仕事見習いのようなことをしているらしかった。
 それを終えれば、大学で出された課題やレポートの作成が待っている。床に入る時間は受験直前のものと変わっていないだろう。
 なにより、既に親の仕事を継ぐ準備に入っているという瑞穂に、奏は距離感を感じ始めてしまった。
 目標に向かって進み始めた瑞穂や由佳里に取り残され、自分はやはり一人なのではと、そんな風に考え始めてしまった。
『そうだ、今度の週末はデートしましょう』
「え? お? はいなのでっ─!」
 落ち込み始めてしまった奏の耳に、突然聞こえてきた『デート』という言葉に、奏は慌てて返事をしようとして──舌を噛んだ。
 涙目になりながら目を開けると、必死に声を抑えているが明らかに顔が笑っている新入生二人がいた。奏はそんな二人を軽く睨んだ……が、やはり迫力の出る顔ではないので、二人の笑いは止まりそうに無かった。
『奏……大丈夫ですか?』
「だ、大丈夫なのです……」
 とにかく、デートが出来る。それだけで、奏は喜びが一杯だった。

「ただいま〜……って、なにやってるの?」
 由佳里が帰ってくると、そこにあったのは、どこか幸せそうな顔をしながらふやけている奏と、きゃーきゃー云っている新入生の姿だった。
「まあ、これも毎度の事かなあ……」
 既に由佳里には、この手のことに免疫が出来ていた。

★      ☆      ★


 駅前で、瑞穂を待っていた奏は、やがて待ち人の姿を捉えることに成功した。
 シャツにジーパンというラフな格好ではあるが、すらっとした身体に、腰まで届こうかという長髪にはちょうど似合っている。
 まるでドラマか漫画の世界から、抜けて出てきたような姿に、奏は胸がギュッとなるのを感じていた。
 しかも、その相手は自分の恋人なのだ。
 許されるのなら、この場で転がって地面をパンパンと叩きたいほどに幸せに感じられた。
「お待たせ。相変わらず早いですね」
 決して瑞穂が待ち合わせに遅れたわけではない。現に今回も待ち合わせ時間の十五分前に到着していた。
 が、奏はそれよりもずっと早く待ち合わせ場所に到着していたらしい。
「楽しみで、早く来すぎてしまったのですよっ」
 と云うことらしい。
 瑞穂としても、そんな楽しみにしてくれていたのかと、嬉しくなり自然と笑顔がこぼれていた。
「さて、特に何処に行くとは決めていなかったんですが……どこに行きましょうか?」
 瑞穂が奏に訊ねた。
 瑞穂としても、自分が引っ張って行ければいいと思うのだが、恵泉で鍛えられたとはいえ、瑞穂の対人スキルは低めだ。それがデートともなれば尚更で……いつも、奏のほうが目的地を決めている。
「実は、お弁当を作ってきたのですよ。だから、お弁当が食べられるところがいいのです」
 云って、手に持っていた荷物をちょこっと持ち上げて見せた。
「そうですね……」
 瑞穂はスポットを検索し始めた。今日は天気も良いし、外で食べるのもいいかもしれない。公園などで食べるのもいいだろう。
 そう考えた瑞穂は、一つの場所を思いついた。
「そうですね……では、桜でも見に行きましょうか?」
「桜……ですか?」
 奏は首をかしげた。既に五月に入っており、学園の桜並木も完全に葉桜になっている。それとも、葉桜を楽しもうということなのだろうか?
「ああ、ソメイヨシノではなくて、八重桜なんですが……まだ咲いてると思いますよ」
「なるほど、流石、瑞穂さまなのです」
「そ、そうですか?」
 何が流石なんだろう? と頭の中で思いつつ、瑞穂はまだ咲いてるであろう場所を思い返していた。

★      ☆      ★


「これなのですか……」
 その場所に着いた奏がそう声を上げた。
 ソメイヨシノの様な派手さは感じられず、葉っぱもかなり混じってしまっているが、その分、観光客の姿も疎らで、昼食を採るのにはちょうど良さそうな場所だった。
「良かった、まだ何とか咲いていましたね」
 実は、奏を誘っておいてから、既に散っていたらどうしようと思っていた瑞穂だったが、無事に花が残っていたのでほっとしていた。
「じゃあ、早速、奏のお弁当を頂きましょうか。実はお腹がペコペコなんですよ」
 おどけて云って見せた瑞穂に、奏はくすりと笑うと、ベンチに座って弁当箱を広げ、魔法瓶からお茶を入れた。
「へぇ……。良く出来ていますね」
 幕の内弁当を思わせるような、豪華な作りに瑞穂が素直に感心の声を上げた。
「えへへ。そんなに褒められると照れるのです」
 奏は、なんとか瑞穂においしい弁当を食べてもらおうと前々から特訓を続けていた。由佳里が生徒会に入ってからは、直接的に由佳里に教えてもらうことは減ったが、基礎的なことは一通り学んだ為、あとは学院の図書館からレシピ本を借りて特訓を続けていた。
「味のほうも──」
 と云って、まず目に付いた鳥のから揚げをぱくっと口に含んだ。弁当なので当然冷めてはいるが、それを前提にしたように僅かに酸味を感じた。それがさっぱりとしていて瑞穂の口にとても合っていた。
「──美味しいですね」
 瑞穂の言葉に、奏が満面の笑みを浮かべる。と、既に瑞穂は次のおかずに箸を付けていた。
「奏は食べないんですか? 食べないのなら僕が一人で食べてしまいますよ?」
 そう一応奏に云うと、あとはパクパクと次々に弁当を口に入れていった。
「ああっ、奏も食べるのですよ」
 それを見て、本当に無くなってしまいそうな気がした奏は大慌てで自分も弁当を食べ始めた。

★      ☆      ★


「ふぅ……」
 恵泉の生徒には、ちょっと見せられない姿で奏の弁当を平らげた瑞穂は、お茶を啜りながらぼっと桜を見上げていた。
 どこかその様子が、奏には、以前生徒会の仕事を手伝って無理をしていたときの様子と重なって見えた。
「……」
 気になった奏は、瑞穂の顔をじっと見つめる。
「……どうかしましたか?」
 じっと見てくる奏に、首を傾げながら瑞穂が云った。
「い、いえ……なんでもないのです」
 顔色はそう悪くは見えなかった。が、奏にはどうしても漠然とした不安が消えなかった。
「ただ、瑞穂さまがお疲れなのではないかと、思ったのですよ」
 奏の言葉が以外だったのか、瑞穂は「え?」と声を上げてから笑い出した。
「大丈夫ですよ。前の様に無茶はしていません。それに、奏の傍にいると気が休まりますから」
 気が休まる、という言葉が奏は気になった。と云うことは、普段は気が張り詰めてばかりで辛いのではないか?
「お辛いのですか?」
「いえ。そんなことは全然。それより、次の場所へ行きましょうか? 折角のデートなんですから」
 瑞穂は強引に話を切り上げると、奏を先導するように歩き出し──奏はそれに着いていくことしか出来なかった。
 その後、街に出てあちこち廻ってみたが、二人ともどこかもやもやとした物を抱えたままで、すっきりしなかった。
 そして、その日のデートはそのまま終わる事となった

★      ☆      ★


「奏ちゃ〜ん、デートの様子……は……」
 寮に帰ってきた奏に、開口一番、由佳里がちゃかしつつデートの様子を聞こう──として、思いとどまった。
 奏の表情は、由佳里の予想と違い、酷く落ち込んでいるように見えたのだ。
 喧嘩でもしたのだろうか? けれど、瑞穂と奏が喧嘩をするところを想像しようとして、それが失敗に終わった由佳里は、心配そうな表情で奏を見るほかに無かった。
「ああ、由佳里ちゃん。今日は早かったのですね」
「え、ああ。うん」
 どうしていいのか判らないまま、そう返事をした由佳里の横を通り抜けた奏は、食堂の席に座ると、頭を伏せた。
「奏って、瑞穂さまのなんなのでしょう……」
 小さい呟き声だったけど、それはしっかりと由佳里の耳に届いていた。
「何って、恋人なんでしょ?」
「ならっ……!」
 由佳里の声に顔を上げた奏は、既に泣いていた。
「恋人って、なんなのですかっ! 相手を支えてあげることも出来ない、話を聞くことも出来ないっ、そんなの恋人でもなんでもないのですよっ!」
 奏の慟哭に由佳里はどうしていいのか判らず、ただ背中をぽんぽんと叩くのみだった。

★      ☆      ★


 翌日、放課後の生徒会室。今日は雨で部活動が休みの為、由佳里は原稿打ちの仕事をしていた。
「あ、会長。この部活動予算申請書の提出締め切りって、十四日でしたっけ?」
 原稿を打ちながら、下書きに書かれていた日付に疑問を持った由佳里は、近くにいた生徒会長の門倉葉子に訊ねた。
「内部的な締め切りは十六日ですが……必ず一日二日、遅れて出してくる部がありますから。大体の場合、それを見越して二日ほど前の日付を締め切りにします」
「ああ、なるほど……」
 何か騙されているような感じがした由佳里だったが、それも仕方ないかと思った。生徒会の忙しさは、今、身をもって味わっている。嘘も方便と云ったところだろう。
「えっと……じゃ、これで原稿あがりました」
 元気良くそう云った由佳里が出来上がったばかりの原稿を、葉子に見せた。
「……」
 それにさっと目を通す、葉子。特におかしな所は見つからない。
「これで十分ですね。では、忘れないうちに印刷してしまいましょうか、印刷室に──」
「刷ってきますね。ではっ!」
 葉子の言葉を全て聞くことなく、由佳里は生徒会室から外に出て行った。
「なんというか……元気ですね」
 つい漏らした葉子の言葉に、他の役員も笑い声を上げた。
 もともと部活動には所属しない、過去に所属していても文科系の部活ばかりだった生徒会メンバーにとって、由佳里の体育会的な行動はとても新鮮に見える。
 当初、苦手としていた原稿打ちや、集計作業も大分様になってきたし、イベントともなると周りが驚くほどの張り切りぶりを見せる。
 そして、それは決して周囲に嫌悪感を抱かせるものではなかった。
 当初、由佳里という存在にまったく期待をしていなかった葉子だったが、どうやらその考えは間違いだったと認めざるを得なかった。
 実は大した人物なのかもしれない、葉子は密かにそう思い始めていた。
「っと、肝心の原稿忘れちゃいました」
 照れ笑いをしながら生徒会室に戻ってくる由佳里。
 原稿は、見事に机の上だった。
(や、やっぱり、期待しないほうがいいのかしら……)
 そんな葉子の心の声が聞こえるはずもなく、無意味に軽やかな動きで原稿を取ると、そのまま外に出ようとして……。
「きゃっ!」
「ととっ!!」
 誰かにぶつかりそうになった。
「っと、ごめんなさい! 生徒会室に……」
 何か御用ですか? と聞こうとした由佳里だが、そこで違和感を感じた。
 目の前の人は私服だった。
 いや、この人には見覚えが会った。
「あ、会長! お久しぶりです」
 葉子が席から立ち上がって声を掛けた。
「ふふっ。今の会長は、私ではなく貴女でしょう、葉子さん」
「あ、そうでした。貴子お姉さま」
 そう、その人物は、前生徒会長の厳島貴子だった。
「時間が空いていたもので、顔を出してしまいました。どうですか? 今期の生徒会は?」
「あ、はい。万事問題なく動いてます」
「そう……ええと……貴女は、由佳里さん、よね?」
 葉子の言葉に安心した貴子だが、目の前にいる人物が気になっていた。確か、この娘は瑞穂さんと同じ寮にいた方のはずだけど……なんで生徒会室に? 貴子が卒業する前に確定していたメンバーには由佳里の名前は入っていなかったはずだ。
「はい。会計監査、やってます!」
 その由佳里の言葉に、どういうこと、と葉子他のメンバーを見渡す貴子だが、そのメンバーは苦笑と共に首を横に振るだけだった。
(万事問題なく、と葉子は云っているけれど……いろいろ問題はありそうですね)
 だが、どこか楽しそうにしているメンバーを見ると、決して悪いことではないのだろうと貴子は思った。瑞穂とは違うが、由佳里はいいムードメーカーになっているようだった。
「そう。奏さんは、お元気かしら?」
 そういえば、奏も同じ寮の仲間だと思い出した貴子は、そう由佳里に聞いてみた。
「あ……」
 その途端、火が消えるように由佳里の表情から笑顔が消えていった。当然「元気です」という返事が返ってくるものと思っていた貴子は困惑した。
「……なにか、あったの?」

★      ☆      ★


 奏は、演劇部の活動を「体調が悪いから」と云って休み寮に戻ってきていた。
 生徒会で忙しい由佳里は勿論、新入生二人もそれぞれ部活があるため、寮に戻ってきてはいない。
 奏は、お茶を入れる気力もなく、食堂の椅子に座り込んだ。
 あのデートから数日が過ぎていたが、奏の気持ちが晴れる事はなかった。
 瑞穂からは何度も、奏を心配する電話がかかって来るが、逆にそれが奏を更に追い込んでいた。
 確かに、瑞穂は自分を必要としてくれている。だけど、それは恋人としてのそれなのだろうか?
 そして、なにより瑞穂を支えて上げることの出来ない自分に不甲斐なさを感じていた。
「それとも……瑞穂さまを支えて差し上げるという考え自体が、烏滸がましいのでしょうか……」
 そんな思考の迷路に迷い込んでいたとき、寮の玄関扉が開いた。
(え? もう誰か帰ってきたのでしょうか?)
 首を傾げる奏だったが、そこにいた人物はまったくの予想外だった。
「か、会長さん?」
「いえ、今は会長ではないのですけど……お久しぶりですね、奏さん」
「はいっ、お久しぶりなのですよっ」
 ぺこっと頭を下げる奏に、そんなにかしこまらないで頂戴と云った貴子が、差し出された席に着いた。
「少々時間が空きましたので、学院に遊びに来させてもらいました」
「そうなのですか……あ、今、お茶を淹れてきますね」
 たとたととキッチンに向かった奏の後ろ姿をみて、やはりどこか元気が無いように感じられた貴子は、さっそく用件を切り出した。
「由佳里さんから、話を聞きました……」
 お湯を沸かそうと、ケトルに水を入れていた奏の動きが止まった。
「由佳里ちゃんから?」
「ええ、彼女、奏さん達のことをとても心配していましたよ」
「そう……ですか。由佳里ちゃんにまで……」
 自分はいつも他人を心配させてばかりだと、ますます落ち込んでしまった奏の所に、貴子はゆっくりと近づいてぽんと、その肩を叩いた。
「よろしかったら、お話を聞かせてくれないかしら。若しかしたら、私でも何かのお役には立てるかもしれませんから」
「貴子お姉さま……」
 その優しい言葉に、奏は思わず涙が零れそうになり、だがそれを必死で堪えた。
「お話します」


 とつとつと奏はあの日の出来事と、その時奏が思ったことを貴子に語った。
「そう、そうだったのですか……」
 奏が淹れた紅茶を口にして、貴子は頷いた。
 そして、一度頭の中を整理すると、出て来た答えを口にした。
「やはりこの場合、瑞穂さんが甘えることに慣れてない所に問題があるように思えますね」
「甘えることに?」
 聞き返した奏に一つ頷くと、貴子は話を続けた。
「私もそうだったのですが、瑞穂さんも、私とは違った意味で人に弱みを見せなかった方ですから……いえ、弱みを出すことを恐れたのでしょうね」
「……」
「以前、瑞穂さんから、恵泉にお越しになる迄の様子を聞いたことがあります。恐らく、他人との触れ合いをしてこなかったことで、頼ったり頼られたりという考えが存在しなかったのではないでしょうか?」
「……」
「恵泉でエルダーとなったことで、頼られると云うことには慣れたのだと思いますが……逆に人に頼ることはあまり無かったでしょうし」
「私も……私も、瑞穂さまには甘える一方でした」
 奏の言葉に貴子は頷いた。
 頼ることに慣れていない人と、頼られることに慣れていない人との組み合わせ。問題はこの辺だろう。
 瑞穂の方はどうにでもなると思ったが、奏の方はどうするべきか……。
 しばし、考え込んだ貴子だが、ピンと来た。
「そうね……奏さん、エルダー・シスターを目指してみるというのは如何かしら?」
「ああ、エルダー・シスターですか、それはいい考えなのですよ〜」
「……」
「って、奏がエルダーなのですかっ!?」
 数秒の時を置いて、やっと正確に貴子の言葉を理解した奏は飛び上がらんばかりに驚いた。
「ええ」
「そ、そんな、奏なんて、背も低いし、話し方はヘンですし、その……」
「しっかりなさいっ! 貴女はこの私、厳島貴子に勝って瑞穂さんの伴侶の座を得たのですよ!」
「は、はいっ!」
 貴子の叱咤に、思わずピンと背筋が伸びる奏。
「……瑞穂さんに頼られる人物になりたいのでしょう。なら、その目標として、いいのではないかしら?」
 一転して優しい声をかけてきた貴子に、奏は頷いた。
 そうだ、自分は強くならなければいけないんだ、いつまでも泣いてばかりの自分では決して瑞穂さまは本当の意味で頼ってはくれない。
 そう考えた奏は、もう一度ゆっくりと頷いた。
「奏は……いえ、私はエルダー・シスターを目指してみます」
「ええ、頑張りなさい」

★      ☆      ★


 週末。
 気拙いのを引きずるのは良くない、という奏・瑞穂二人の意見の一致により、直ぐに二人はデートを行うことになった。
 前回、駅前で待ち合わせをして失敗したので、今回は奏が瑞穂の家まで迎えに来ている。
 本当は、瑞穂が奏を迎えに行きたかったのだが、流石に男の格好で、恵泉の寮に向かうのには抵抗があった。
「──奏さんか」
 そういて瑞穂を待っていた奏に、上の方から声が聞こえてきた。奏が見上げると、門から鏑木慶行が、その姿を現していた。
「あ、お義父様……」
 「おとうさま」という響きが良かったのか、慶行はうっすら浮かべた笑顔と共に満足そうに頷いて、だが直ぐにその表情が重々しいものに変わった。
「アレは、昔から自己主張とか我侭とか、そういう事をしなかった子でな──」
 慶行がまるで独り言のように語り始めた。
「最初は手間のかからない良い子だと、そう安心していた──が、反抗期が始まるような頃になっても、何も自分から云い出す事がない。逆にこちらの言うことにはすべて従う──そうなったとき、私は始めて焦りを感じた」
 奏の表情が不安げに変わったが、慶行はそれに構わず話を続けた。
「何とかして瑞穂自身が心を動かすようにしなくてはいけない。そう思った私は、様々なことを瑞穂にさせてみた。どれかに興味を示してもっとやりたい、或いは、これはやりたくないと云い出してくるのを期待していた」
 そこで一つ息を吐いた慶行は、更に話を続けた。
「だが駄目だった。瑞穂は全てに於いて人並み以上の才能を示して見せた。だが、それでも特定の何かに興味を持つことも、拒絶することもなかった」
「それで……瑞穂さまを恵泉に?」
 奏の言葉に慶行は頷いた。
「父に相談したときにその話があがった。幸穂が育った恵泉に通えば、瑞穂自身の心が動き出すのではないかと……だが、いきなり恵泉に行けと云っても流石に問題がある」
「それで、お祖父様の遺言として?」
「卑怯な手段だったとは思う。だが──これは成功した。瑞穂はやっと自分自身の心を動かし、他人に興味を持ち──そして、君のような伴侶を得るまでになった。君には……いや、君たちには感謝している」
 そう云って頭を下げた慶行に、奏は大慌てで首を振った。
「そ、そんな。私たちの方が瑞穂さまに助けてもらってばかりでした」
「いや、アレが誰かを助けようと思った時点で、すでに君たちに救われていたのだよ」
 そこで話が終わったのだろうか? 慶行は、奏に背を向けると再び家の中に入ろうとしていた。
「──ただ」
 話が続いた。
「結局、私は瑞穂にとって良い父親ではなかった……その事だけが悔しく感じる」
「そんなこと、ありません!」
 慶行の言葉に、奏は大声を上げて否定した。
 驚いて振り返る慶行に、奏は声をかけた。
「もしお義父様が、良い父親でなかったのなら、瑞穂さまはあんなに優しい方にはなってはいません!」
 有無を言わさないような断定の口調に、慶行は笑みを浮かべた。
「なるほど、君は瑞穂の云うとおりの人物のようだ」
 にかっと豪快に笑う慶行に、奏は一瞬、呆気にとられた。
「これからも、瑞穂を頼む」
 そういい残して屋敷に戻っていった慶行に、奏は後ろから「はい」と声を掛けた。
「奏。父様と話をしていたのですか?」
 入れ違いに出て来た瑞穂が不思議そうな顔で、奏に訊ねた。
「はいなのです!」
「ど、どんな話を?」
 瑞穂としては、慶行と奏がどんな話をしたのかまったく想像がつかず思わずシンプルに奏に訊いてしまった。
「えへへ……秘密なのですよ〜」
 くるっと回って先に行く奏。
「あ、待ってくださいよっ」
 そして、瑞穂がそれを追いかける。それが、この日のデートの始まりだった。

★      ☆      ★


 人の姿がまばらな電車の中。
 先ほどの話の追求を諦めた瑞穂は、奏に別の話をした。
「そういえば……エルダーを目指してるって話を聞いたけれど……」
「あ、……はい。目指しています」
 突然、方向性が変わった話に、一瞬戸惑った奏だったが、瑞穂の目を真剣に見返して応えた。
「私は、もっと強くありたいと思いました。せめて泣き虫では無くなる位には……その為の目標としてエルダーになろうと……そう、決めました」
「そう……」
 奏の言葉に頷いた瑞穂は、眼を瞑って奏の肩に寄りかかった。
「僕も、奏のその強さに甘えてもいいのかな?」
 瑞穂の言葉に頷いた奏はゆっくりと云った。
「はい……。いつでも」
 その言葉を聞いて、嬉しそうな笑みを浮かべた瑞穂から、直ぐに規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 瑞穂が、奏に寄りかかってくれた。
 だけど、今のこの光景は正確には奏の望んだものではなかった。
(これはきっと、貴子お姉さまが瑞穂さまに云ってくれたのです)
 奏にはその確信があった。
 もうあの人に足を向けては寝られないな、と奏は思った。
(今はまだ、貴子お姉さまに頼っています……ですが……)
 いつか強くなって、きっと……。
 そう思う奏の肩にかかる重さが、なぜだか奏を応援してくれているようだった。

★      ☆      ★


「本年度のエルダー・シスター選考委員会による集計結果が出ました。有効投票総数のうち、10%を越えた生徒が複数いますので、名前を読み上げられた生徒は壇上へ上がってください」
 講堂にマイク越しの教師──緋紗子ではない──の声が響いた。
 いよいよ奏の代のエルダー・シスターを発表するときがやって来た。
 ここに至るまで一年以上。その成果が発表される。
「A組、周防院奏。40%」
 まず、奏の名前が呼ばれ、周囲からきゃーっと云う声が上がった。
 奏は一つ深いお辞儀をすると、ゆっくりと壇上へと向かった。
「同じくA組、上岡由佳里。39%」
 再びきゃーっという声が上がり、今度は由佳里が頭を下げ、壇上へと向かった。
「──以上です」
 壇上に並んだ、親友二人。
 あれから身長のまったく伸びていない奏と、昨年の夏の間に急激に身長の伸びた由佳里。
 大人しく、そこに居るだけで周囲を癒してくれる雰囲気をだす奏と、行動的で生徒会長として、さまざまなイベントを推し進めている由佳里。
 文科系の部活で絶大な人気を誇る奏と、運動系の部活に於いて幅広く頼られている由佳里。
 それは対照的とも思える二人の、エルダー決戦だった。
「では、選考された二人は──」
「待ってください」
 手続きどおりに演説を始めさせようとした教師を止めて、由佳里がマイクの前に立つと、ぴっと頭を下げて礼をした。
「皆さん。今回は私に票を入れていただき、ありがとう御座いました。がさつで粗野な私ではありますが、それでも39%もの皆さんに支持していただいたことを嬉しく思います」
 そこまでを一気に話した由佳里は、ひとつ呼吸を整えると演説を続ける。
「ご承知だと思いますが、私は生徒会長であり、また陸上部の部長も勤めさせて貰っています。私ではこれが精一杯で、これにエルダー・シスターの兼任は困難であると考えます。そこで私、上岡由佳里は、演劇部部長で、先の演劇コンクールで都大会優勝まで導いた、周防院奏さんを支持することにします!」
 段取りを無視した由佳里の行動に、進行役の教師はあっけに取られつつも、支持したという事実だけをとりあえず確認し、マイクに向かった。
「以上により、周防院奏さんの得票率は79%となりました。これにより75%を超えたた為、本年度のエルダー・シスターはA組の周防院奏さんとなりました」
 その発表で再び、きゃーっという声が当たりに響いた。
「ほら、奏さん。就任の挨拶」
 笑い顔で戻ってきた由佳里が、奏に云った。
「はい、行ってきます」
 その笑顔に、笑顔で答えると、奏は由佳里と入れ替わりにマイクの前に立った。
 目標の一つ、エルダー・シスターになることが出来た。
 勿論、感動しないわけではない。今まで積み重ねてきた努力が実ったこともそうだが、これだけの人に自分は支持されたのだと考えると、それは素直に嬉しく思える。
 だけど、これも奏にとっては通過点。
 そう、奏はもっと、もっと強くなって瑞穂を支えようと、その考えのほうが強かった。
 奏はまず、大きく頭を下げた。唯でさえ小さい奏の身体が、更に小さく見えて、思わず可愛いという声があたりから聞こえた。
 ちょっと悔しく思うけど、これは予想の範囲内。由佳里の様に背を伸ばしてくれなかった神様に、少しだけ文句を云ってから予め用意していた挨拶を始めた。
「まずは、支持して頂いた皆さん、ありがとう御座いました。見ての通り、私は──」
「お待ちください!」
 挨拶を始めたそのタイミングで、鋭い声が上がった。
「私は、今回のエルダー選定に異議を唱えさせて頂きます」
 突然の反対意見。周囲は一気にざわめきだし、由佳里は微かに不安そうな表情を見せた。
「今回の、上岡由佳里さんによる周防院奏さんへの支持は、ただ友誼を結んでいたというだけで行われたように私には見受けられます」
 予想外のトラブル。講堂全体が騒ぎ出し、それはまるで、瑞穂の代のエルダー選出を思わせるようだった。
 皆が、不安や驚きの顔を浮かべる中で、ただ奏だけがそれまでと変わらない笑顔を維持していた。
 別に、奏は以前の様にパニックを起こしたわけではない。
 単純に嬉しかったのだ、瑞穂の代のような反対動議が起きてくれたという事に。
 それでまた一歩、瑞穂の所に近づけるような気がした奏は、真剣な顔をしている相手とは対照的に、白菊を思わせるような笑顔で云った。
「では、先ずは壇上にあがって下さい」
 その奏の予想外の言葉に、意義を唱えた生徒は、えっという表情をして見せた。何故、反対意見を云った自分にこれほどの笑顔を向けられるのか、それが全く理解できなかった。
「そうですね。同じ舞台で話し合いましょう」
 由佳里も奏に続いて、笑顔でそう云った。
 今の恵泉を代表している二人に笑顔を向けられ、場違いに顔を赤くしてしまった生徒は、それを誤魔化すように大声をあげた。
「わ、わかりましたっ!」
 結果。その良く判らない状態のまま、壇上に上がってしまった。もう、こうなっては完全に二人のペースだった。
「では、始めに私の方から、周防院奏さんを支持することに至った理由を、説明させて頂きたいと思います。先ずは──」
 生き生きと話し出した由佳里と奏は、すぐさま全校生徒を味方に付ける事に成功。あっさりと反対意見は却下され、意義を唱えた生徒はすごすごと引き下がる事しか出来なかった。
 そうして歓声と共に、周防院奏は、エルダー・シスターに就任することになり、この時の二人の様子から、それぞれ「白菊の君」と「琥珀の君」という異名をとることになった。
「よろしくお願いいたします!」
 エルダー就任の挨拶をそう締めくくり……そして、激動のエルダーとしての最終学年が始まった。






ということで、奏シナリオアフター……というか、8話とエピローグを補完するはなしですね。
前作の『月蝕』が「話が重い」ということだったので、今回はほのぼの路線で行きました。……ほのぼので行けてますよね?
実は、こんなに長くしようと思った話ではなかったのですが、いろいろな謎解釈を絡めつつ、話をくみ上げていったらこの量になってしまいました……もちっと、シンプルに書くことを覚えないと駄目かも。


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